南市 南市市立病院 「おめでとうございます。あなたは妊娠しています。お子さんはとても元気です」 霧島弥生は手の中の報告書を握りしめて、驚いた顔をした。 妊娠?霧島弥生は喜ばしさと驚きを感じながらも、まだ信じられなかった。 「これからは定期的に再診に来てくださいね。お父さんはいますか?入らせてもらえますか?いくつか注意点を伝えたいのですが」 先生の言葉に霧島弥生は気を取り直して、恥ずかしそうに笑った。「主人は今日来ていません」 「まったく。忙しいからといって、奥さんと赤ちゃんのことを放っておくわけにはいきませんよ」 病院を出て、外はしとしとと雨が降り出した。霧島弥生は自分の小腹を撫でた。 ここには、もう小さな命が宿っている。 宮崎瑛介との子供だ…… スマホが震える気がした。取り出して見たら、宮崎瑛介からのメッセージだった。 「雨が降ってる。この住所に傘を持ってきて」 霧島弥生はそのアドレスを確認した:○○クラブハウス これはどこ?今日は会議があるって言っていたじゃないか? しかし霧島弥生は迷いもせず、宮崎家のドライバーにこの住所まで自分を送らせた。 「もう帰っていいわ」 「奥様、私はここで待ったほうがいいじゃないでしょうか」 霧島弥生はしばらく考え、首を横に振って「結構よ。主人と一緒に帰るから」 宮崎瑛介を探しに来たのだから、彼と一緒に家に帰ろうと思った。 宮崎家のドライバーである田中はすぐに車を動かして去った。 さっきはじめじめと雨が降っていたが、今は激しい雨に変わった。 霧島弥生は傘を差してクラブの入り口へ歩いた。 ここはビリヤードクラブで、内装が高級そうに見えた。霧島弥生は入り口で止められた。 「申し訳ありませんが、会員カードを提示してください」 霧島弥生はしばらく考えて、結局外に出て宮崎瑛介にメッセージを送った。 「着いたよ。まだどのくらいいるの?下で待ってるから」 メッセージを送り、彼女は傘を持って入り口の近くに立って、雨を眺めながら、妊娠の確定診断について考えていた。 彼が出てくる時に直接伝えるか?それとも、彼の誕生日にサプライズプレゼントとして後であげた方がいいのか? 霧島弥生は考え込んでいた。自分が階上にいる人々の笑い者になっているとは思
親友が騒ぐ声の中で、宮崎瑛介は目を伏せて、霧島弥生に素早く返信をした。「傘はいらない。先に帰っていい」このメッセージを受信したとき、霧島弥生は心の中で少し変だと思い、「何か問題があったの?」と返信した。彼女は目を伏せてしばらく待ったが、宮崎瑛介からの返信は来なかった。きっと、本当に忙しいのだろう。霧島弥生は先に帰ると決めた。「ちょっと待って」後ろからかけられた声に彼女は止めた。振り返ると、二人のおしゃれな女性が彼女の前に歩いてきた。その中の背の高いほうが彼女を見下ろして、「霧島弥生なの?」と軽蔑したように尋ねた。相手は明らかに悪意を抱いている。霧島弥生もぶっきらぼうに答えた。「あなたは?」「私が誰かは重要ではないわ。重要なのは、奈々が戻ってきたこと。気が利くなら、宮崎瑛介のそばから離れなさい」霧島弥生は目を見開いた。長い間その名前を聞いてなかったので、その人間がいることすらほとんど忘れてしまっていた。相手は彼女の気分を悟ったようで、また彼女を見下ろして、「なぜそんなに驚いているの?二年間偽の宮崎奥様をしていたから、頭が悪くなったの?本当に自分が宮崎奥様だと思ってるの?」霧島弥生は唇を噛み、顔は青ざめ、傘を持つ指の関節も白くなった。「もしかして、諦めていないの?奈々と争いたいと思っているの?」「こいつが?」霧島弥生はそっぽを向いて、そのまま歩き始めた。二人の女が言うことを聞くのをやめた。二人の叫び声が雨の中に消えていく。霧島弥生が宮崎家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、雨に濡れた姿で立っている彼女を見て驚いた執事は「奥様!」と声を上げた。「こんなに濡れて、どうなさいましたか?早くお上がりください」霧島弥生は手足が少し痺れていた。家の中に入るとすぐに、彼女はたくさんの使用人に囲まれ、使用人は大きなタオルで彼女の体を覆い、髪を拭いてあげた。「奥様に熱い湯を入れて!」「生姜スープを作って」霧島弥生が雨に濡れたことで、宮崎家の使用人は混乱していたので、一台の車が宮崎家に入り、長い影が玄関に現れたのに誰も気がつかなかった。冷たい声が聞こえてきた。「どうした?」その声を聞いて、ソファーに座った霧島弥生はまぶたを震わせた。どうして戻って来たのだろう?彼は今、奈々と一緒にいる
宮崎瑛介は彼女を浴室に連れていき、出て行った。霧島弥生はずっと頭を下げていたが、宮崎瑛介が離れると、彼女はゆっくりと頭を上げ、手を伸ばして涙をそっと拭った。しばらくして。彼女は浴室のドアを内側から鍵をかけ、ポケットから妊娠報告を取り出した。報告書は雨に濡れて、字はもうぼやけていた。もともとサプライズとして彼に伝えたいと思っていたが、今は全く必要ない。宮崎瑛介は携帯を手放さない人であることを、2年間彼と一緒に過ごしてきた彼女はよく知っていた。しかし、彼自身がわざわざ彼女にそんなメッセージを送って、笑い者にされるようなつまらないことをするわけがない。きっと誰かが彼の携帯を持ち、そのようなメッセージを送って、笑い者にされたに違いない。たぶん、彼女がバカのように傘を差して下で待っている姿を、上から多くの人が笑っていたのだろう。霧島弥生は長い間その紙を見つめ、皮肉な笑いを浮かべながら、報告書を引き裂いた。30分後。霧島弥生は静かに浴室から出てきた。宮崎瑛介はソファーに座り、長い足を床にのせた。その前にはノートパソコンがあり、まだ仕事に取り組んでいるようだった。彼女が出てきたのを見て、彼は隣の生姜スープを指した。「この生姜スープを飲んで」「うん」霧島弥生は生姜スープを手に取ったが、何かを思い出し、彼の名前を呼んだ。「瑛介」「何?」彼の口調は冷たく、視線はスクリーンから一度も離さなかった。霧島弥生は宮崎瑛介の優れた精緻な横顔とEラインを見つめ、少し青ざめた唇を動かした。宮崎瑛介は待ちきれずに頭を上げて、二人の目が合った。入浴したばかりの霧島弥生は肌がピンク色になり、唇の色も前のように青白ではなく、雨に濡れたせいか、今日の彼女は少し病的に見えて、か弱くて今すぐにでも壊れてしまいそうだった。ただその一瞥で、宮崎瑛介の何らかの欲望が刺激された。霧島弥生は複雑な心持ちで、宮崎瑛介のそのような感情には関心を持たず、自分の言いたいことを考え込んでいた。彼女がようやく言いたいことを言おうと、「あなたは……あっ」ピンク色の唇がちょうど開いたとき、宮崎瑛介は抑えられないように、彼女の顎をつかんで体を傾けながらキスをした。彼の粗い指はすぐ彼女の白い肌を赤らめた。宮崎瑛介の息がとても熱く、燃
霧島家が破綻する前には、霧島弥生を追いかける男性は数えきれないほどいたが、彼女が気に入った人は一人もいなかった。時間が経つにつれて、皆は霧島家のお嬢様が清楚ぶってると言うようになっていた。そして破綻後、多くの男は彼女をからかう心を燃やし、裏でオークションを始めた。彼女が最も落魄、最も屈辱を味わったとき、宮崎瑛介が戻って来た。彼はそのうるさくオークションをする人を片付け、それぞれに痛ましい代償を支払わせた。そして霧島家の借金を完済し、彼女に言った。「私と婚約しなさい」霧島弥生は彼を驚いた表情で見つめていた。その顔を見て、彼は手を伸ばして彼女の顔を撫でた。「何だその顔?君を利用するとでも思っているのか?安心して、偽の婚約だけだ。おばあちゃんが病気になったんだ。君のことをとても好きだから、君と偽の婚約をすることで彼女を喜ばせたい。霧島家を再建する手助けをしてあげるから」ああ、偽の婚約だった。ただおばあちゃんを喜ばせるためだった。彼が自分のことが好きでないと彼女はわかっていた。それでも、彼女は同意した。彼の心に自分はいないと明らかにわかっているのに、落ち込んだ。婚約後、霧島弥生はとてもかたくるしかった。二人は幼馴染だったが、前はただ友達として接していたので、突然の婚約に霧島弥生は言葉にできない不自然さを感じていた。ところが、宮崎瑛介はとても自然だった。各種のパーティーやイベントには彼女を連れて行った。一年後に宮崎おばあさんの病気が悪化したため、二人は結婚し、霧島弥生が皆から羨まれる宮崎奥様となった。世間では、この幼馴染の二人がついに結ばれたと言われていた。気づいたら、霧島弥生は思わず笑っていた。残念ながら、実りなどなかった。ただ互いに希望する取引に過ぎなかった。「まだ寝ていないのか?」宮崎瑛介の声が突然聞こえてきた。すぐに、そばのマットが凹んで、宮崎瑛介の清潔な香りに周りが包まれた。「話したいことがある」霧島弥生は振り向かず、宮崎瑛介が何を言いたいか大体わかった。宮崎瑛介は言った。「離婚しよう」予想されていたにもかかわらず、霧島弥生の心はドキドキと高鳴った。彼女は心の中の波を押さえ、できるだけ落ち着くようにした。「いつ?」彼女はそのまま横たわっていて、表情は落ち着いて、声にも何の
翌日朝起きると、霧島弥生は風邪気味だと感じた。引き出しから風邪薬を取り出し、温かい水を一杯注いだ。風邪薬を口に放り込むと、霧島弥生は何かを思い出して、顔色が変わり、浴室に駆け込んで口の中の薬を吐き出した。彼女は洗面台に這いつくばって、薬の苦味を吐き出そうとした。「慌ててどうした?具合が悪くなったか?」ドアで凛々とした男の声が突然聞こえて、霧島弥生は驚いて彼の方を向いた。宮崎瑛介は眉をひそめて彼女を見つめていた。視線が合った途端、霧島弥生はすぐに視線をそらした。「大丈夫なの、薬を誤って飲んでしまっただけ」そう言って、彼女は唇の水を拭き取り、立ち上がり浴室を出た。宮崎瑛介は振り返って、彼女の後姿を眺めて考え込んでいた。昨夜から彼女の様子が変だと感じていた。朝食を済ませた後、夫婦は一緒に外出しようとした。宮崎瑛介はまだ少し顔色が青白い霧島弥生を一瞥し、「私の車に乗るか?」と言った。霧島弥生は昨日雨に濡れて、今朝起きたら体調が悪くなっていた。彼女はうなずこうと思っていた矢先に、宮崎瑛介の携帯電話が鳴った。彼は一瞥して、着信が奈々からのものだと分かり、彼女を避けようとしたが、霧島弥生はすでに自ら離れていった。二人は夫婦ではあるが、心は一つではない。霧島弥生は普段、宮崎瑛介の電話を聞く習慣はなかった。二人はずっとこのような付き合い方を続けていた。しかし、今日は宮崎瑛介が彼女を避ける様子を見て、心に少し痛みを感じた。しかし、その気持ちはすぐに消え、彼は電話に出た。霧島弥生は少し離れた場所から彼を窺っていた。彼の表情から、電話をかけてきたのが誰であるかすぐに判断できた。彼のあの優しい表情を、これまで彼女は一度も見たことがなかった。彼女は深く息を吐き、心の中の羨望を抑えながら携帯を取り出して、ガレージの方に向かった。五分後。宮崎瑛介は電話を切った後、振り向くと、そこには誰もいなく、霧島弥生の姿はすでに消えてしまった。同時に、携帯にメッセージが届いた。「急いで会社に行かないといけないから、先に行くわ」宮崎瑛介はそのメッセージをじっと見つめ、目が暗くなった。*霧島弥生は体調不良を我慢して会社に到着し、ドアを開けるとすぐにオフィスチェアに座り、机にうつ伏せた。頭が痛い……
「本当に大丈夫よ。昨日の仕事のまとめはできましたか?」すぐにまた仕事の話に戻ってしまった。大田理優は仕方なく自分が整理した資料を持ってきて、それに加えて彼女にお湯を一杯差し出した。「もし弥生さんが病院に行きたくないのなら、もっとお湯を飲んでくださいね」大田理優は当初、霧島弥生自身が雇って来たアシスタントで、普段仕事を真面目にこなしている。しかし、二人は仕事以外でプライベートでの付き合いはなかった。彼女が自分に対してこんなに気を遣ってくれるとは思わなかった。霧島弥生は心が温まった。お湯を何口か飲んだ。先ほどは少し冷えていたが、お湯を飲んだ後、霧島弥生はようやく少し楽になれた。しかし、大田理優はまだ彼女を心配して見つめていた。「弥生さん、今日の報告は私が代わりに行きますか?弥生さんはここで少し休んだらどうですか?」霧島弥生は首を振り、「いいえ、自分でやるよ」ただちょっと具合が悪いだけで、そんなに甘えるわけにはいかない。何かあったらすぐに休んで、他の人に代わりに仕事をしてもらうわけにはいかない。そうすれば、時間が経つにつれて、怠け者になる。もし今後具合が悪い時には誰かが助けてくれる人がいなかったらどうする?霧島弥生は手元の書類を整理し、宮崎瑛介のオフィスに向かった。彼女のオフィスから宮崎瑛介のオフィスまでは少し離れている。普段なら別になんでもないが、今日は具合が悪くて、霧島弥生は少し疲れを感じた。「失礼します」「入って」扉の向こうから低くて冷たい男の声が聞こえ、霧島弥生は扉を押し開けた。扉を開けると、霧島弥生はオフィスにもう一人がいることに気づいた。江口奈々だ。白いドレスが江口奈々の細い腰を見せ、腰まで届く長い髪が柔らかくその脇に垂れている。その時、床までとどく大きい窓からの日光に照らされた彼女は、スッキリとして生き生きとした印象を与えていた。相手を確認した途端、霧島弥生は体がこわばった。「弥生、来たわね」江口奈々はにっこり笑って彼女に向かって歩み寄って、霧島弥生が反応する前に彼女を抱きしめた。霧島弥生は体がさらに強張り、江口奈々の肩越しに宮崎瑛介の真っ黒な瞳と向き合った。男は机の脇に寄りかかって、深い目で彼女を見つめていた。何を考えているのかわからない。霧島弥生が
霧島弥生は仕方なく「雨に濡れただけで、大したことないわ」と答えた。そう言って、彼女は昨日の業務報告書を机の上に置いて行った。「これは昨日の業務のまとめを整理したものよ。私は仕事があるから、これで失礼するわ」霧島弥生は江口奈々を見た。江口奈々はすぐに笑顔を浮かべた。霧島弥生が出て行った後、宮崎瑛介は眉を一層顰めた。「瑛介くん?」江口奈々の呼び声に、彼はやっと我に返った。宮崎瑛介のその様子を見て、江口奈々は不思議に思ったが、それでも優しく配慮深く声をかけた。「弥生、調子が良くないようね。彼女は今、瑛介くんの秘書をしているけど、破綻する前は霧島家のお嬢様だったのよ。あまり厳しくしないでね」厳しく扱う?宮崎瑛介は心の中で笑った。あのお嬢さんを厳しく扱えるのか?しかし、彼はそれを言わなかった。ただ、「うん」と応えただけだった。霧島弥生は頭が重いと感じながら、自分のオフィスに戻った。座った途端、思わず机にうつむいた。さらに目眩がした。どれくらい経ったのかわからないが、大田理優の声が聞こえた。「弥生さん、やはり帰って休んだらどうですか」霧島弥生は本当に元気を出せなく、とても苦しくて小さな声で「理優、ちょっとっ横になりたい」と言った。そう言って、霧島弥生は深い眠りの中に落ちた。霧島弥生は夢を見た。夢の中で、彼女は18歳のあの日に戻った。あの日は霧島弥生と宮崎瑛介の成人式だった。両家は成人式を一緒に行った。当時の霧島弥生は、自分が好きな青いドレスを着て、パーマをかけ、ネイルをして、その日に宮崎瑛介に告白しようと思っていた。彼女は長い間宮崎瑛介を探して、彼を小庭園で見つけた。彼女はスカートをつかんで近づこうと思っていたが、宮崎の友達のからかう声を耳にした。「瑛介、もう成人したんだから、好きな女の子がいたら婚約も考えなきゃなあ」「霧島もいいんじゃない。いつも瑛介の後をついて回っているじゃないか」霧島弥生はそれを聞いて、本能的に足を止めて、宮崎瑛介の答えを聞いてみたかった。なにしろ、彼の答えは彼女が次にすることにも大きな影響を与えるだろうから。しかし、宮崎瑛介が答えられる前に、誰かが先に言った。「霧島はだめだ。瑛介は彼女を妹のようにしか見ていないって知っているだろう。瑛介の心には
だが、この件について霧島弥生は詳しく知らなかった。あの時、彼女も川に落ちたらしく、高熱を出し大病を患い、目覚めると以前の多くのことをほとんど忘れてしまい、自分がどのように川に落ちたのかさえ覚えていなかった。同級生の話では、彼女が遊ぶ心が強くて、注意力に欠けていたから水に落ちたそうだ。霧島弥生自身はずっと何かを忘れてしまった気がしていたが、どうしても思い出せなかった。その後も歳月が過ぎて、当時の出来事をはっきりと覚えている者はほとんどいなくなった。宮崎瑛介が命を救った人にこんなに執着するなんて思ってもいなかった。もしあの時、飛び込んだのが自分だったらよかったのに。夢の中の彼女の感情は、今の霧島弥生と融合したかのようだ。心は巨石が圧えられているように重く不快を感じ、頭痛はさらに耐え難い。なぜあの時飛び込んだのは自分ではなかったのだろうか?もし……もし……突然、宮崎瑛介の顔が目の前に現れた。その目は冷たく、無情である。「弥生、子供をおろして」すぐに彼のそばには江口奈々が現れ、彼女は蔓のように宮崎瑛介に依存していた。「弥生、子供をおろさないって、私たちの関係を破壊したいの?」破壊という言葉を聞いて、宮崎瑛介の目はさらに冷たくなり、彼は数歩進み出て霧島弥生の顎をつかんだ。「言う通りにしろ。さもなければ手を出すぞ」彼の手の力はあまりにも強く、霧島弥生の顎が砕け散るほどだった。霧島弥生は抵抗して、突然目が覚めると、全身が冷汗に濡れていた。目に見えるのは、窓の外を後ずさりする道だった。さっきのは……夢だったのか?どうしてそんなにリアルだったんだろう……霧島弥生はため息をついた。「弥生、目が覚めたんだ」優しい声が前から聞こえて、霧島弥生は目を上げた。江口奈々の心配そうな顔が見えた。「よかった、何かあったかと心配してたわ」江口奈々?彼女がなぜここにいる?すぐに霧島弥生は気づいて、彼女のそばに目を向けた。確かに、車を運転していたのは宮崎瑛介で、江口奈々は助手席に座っていた。宮崎瑛介は運転をしながら、彼女が目覚めたのを知り、ただ後ろ鏡を通じて彼女を一瞥した。「目が覚めたのか?まだどこか気分が悪いか?すぐに病院に着くから、医者に診てもらおう」霧島弥生は悪夢で心臓を高鳴らせ、少し落ち着いたはずの
弥生は、彼の言葉に答えなかった。10数秒後、友作は気まずそうに鼻を触りながら、軽く頭を下げた。おそらく、先ほどの会話があまりに気楽すぎたため、つい不用意な発言をしてしまったのだろう。それを思い出すだけで、友作は後悔の念に駆られた。しかし幸いなことに、数分後、弥生が自ら沈黙を破った。「友作、次の競売品、代わりに入札してくれる?」「次の品ですか?」友作は急いでカタログをめくって、中身を確認した。そこには、透明感のある見事な翡翠のブレスレットが載っていた。「これが気に入りましたか?」彼は少し驚いたような表情を浮かべた。弥生が翡翠の装飾品を好んでいるとはこれまで聞いたことがなかったからだ。だが、事前に弘次が「もし弥生が気に入るものがあれば、いくらでも入札し、必ず手に入れるように」と指示をしていたこともあり、友作は軽くうなずいた。弥生は静かに笑みを浮かべ、何も言わなかった。「分かりました。お任せください」次の競売品が登場する際、友作は真剣な表情で準備を整えた。まるでその翡翠のブレスレットが今夜の目玉商品であるかのような緊張感だった。弥生は、彼が気合いを入れている姿を見て、そっと口を開いた。「最初は少し様子を見てね」友作は大きくうなずいた。会場では次々と競りが進み、価格が次第に上昇していく。あっという間に、翡翠のブレスレットの値段は6億円に達した。さらに7億円になると、入札者の数が減り、競り合いは2人だけとなった。弥生は隣に座る友作に軽く目配せをし、「そろそろ」と合図を送った。友作は頷き、入札の札を上げようとしたその瞬間、前方の席から声が響いた。「8億円」友作が出そうとした金額と同じだったが、一歩先に宣言されてしまった。彼は長年弘次の指示を受けている経験から、少し考えた末、さらに大胆な一手を打つことを決めた。「9億円」隣に座る弥生が反応する前に、友作はすでに札を上げていた。弥生は唇を動かしたが、何も言わなかった。ただ、友作の「絶対に勝つ」という気迫を見て、少し考えを巡らせていた。その頃、奈々も再度入札の準備をしていた。奈々は今回の競売で何かを買うつもりはなかったが、瑛介と一緒に来たこともあって、注目を集める絶好の機会を逃したくないと考えていた。彼女は瑛介の隣に座りながら、
「傘、持ってきた?」後部座席で子供たちと一緒に座っている弥生が尋ねた。それを聞いて、友作は首を横に振った。「雨が降るとは思っていませんでした」弥生は周囲を見渡し、すぐに決断した。「前にコンビニがあるよね。そこで車を停めてもらえる?」最初の小雨は本格的な大雨に変わった。視界も悪くなり、到着する頃にはすでに遅刻していた。会場内には人がまばらだった。友作が招待状を取り出すと、入り口のスタッフの態度が急に恭しくなった。「どうぞこちらへお進みください」弥生が今回のオークションに参加するのは、実際には弘次の代行だった。弘次の地位と名声を考えれば、当然のようにVIP席が用意されていた。しかし、遅れてきたこともあり、前方の席に行くのは目立ってしまう。弥生は少し考えた後、スタッフに穏やかに微笑みながら言った。「後方の席でも構いませんよ」それを聞いたスタッフの顔色が変わった。「それは.....あのう、お二人は......」「大丈夫です。遅れてきたのは私たちのせいですし、後ろの席でもオークションには支障ありませんから」弥生がそう言うと、スタッフは困惑しつつも、結局上司に報告しに行った。弥生と友作が後方の席に着いたとき、すでに最初の出品物のオークションは終了していた。座席に座るとすぐに、友作がオークションカタログを弥生に渡した。弥生はそれをめくりながら言った。「弘次が狙っているものは、さっきの出品物ではないようね」友作は頷いた。「そうですね。その品物はおそらく目玉商品なので、最後に登場するでしょう」「最後......」弥生は少し考え込む。「じゃあ、弘次は今夜きっと大盤振る舞いね」その言葉に友作は思わず笑みを漏らした。「そうですね。でも、ご心配なく。黒田さんにとって、この程度の金額は大したことではありませんよ」もちろん弘次が金を惜しまないことは理解していたが、弥生は何も言わなかった。これくらいの支出は、弘次にとって日常のようなものだ。「私もいつか彼みたいな大金持ちになりたいわ」弥生は軽くつぶやいた。実際、彼女は自身の会社を立ち上げて、それを大きく成長させることを考えていた。たとえ弘次ほどの富を築けなくても、自分と子供たちが不自由なく過ごせるだけの余裕は作れる
奈々は、瑛介が自分を帰らせようとしていることに驚いた。唇が白くなって、思わず首を横に振った。「いや、帰りたくないわ。やっと一緒に来る機会を得たのに。私たち、もう何年も一緒に出かけてないでしょう?お願いだから」彼女はその場で涙ぐみ、悲しげな瞳で瑛介を見つめた。瑛介はただ無表情で彼女を見つめ返した。「私があなたの命を救ったことで、あなたに負担をかけているのは分かっている。でも、今だけ、そのことを忘れてくれない?私も普通の女の子として、あなたを追いかけたいだけなの」彼女がこれを口にしたとき、あえて自分が瑛介の「恩人」であるということを織り交ぜた。表面上は「恩人」という立場を忘れてほしいと言いながら、実際にはその事実を思い出させている。感情に訴えかけるつもりはなかったが、彼女にとってはこれが最後の切り札だった。このカードを切ることすら許されなければ、どうしたらいいのか分からない。幸運にも、この件について瑛介は常に彼女に感謝と感恩を抱いているようだった。しばらく冷静に彼女を見つめた後、ようやく肘を少し動かして言った。「今回だけぞ」その言葉を聞いて、奈々は嬉し涙を浮かべながら、瑛介の腕を取った。「ありがとう」やはり、どれだけ時間が経っても、このことを持ち出せば彼は必ず心を動かすものだ。それもそのはず、瑛介の心の中では、自分の命は彼女が与えてくれた二番目の命だという認識がある。彼の心を動かす方法は絶対にこれのほかにはないだろう。奈々は瑛介の腕を取り、先ほど笑っていた数人の女性たちを睨み返して、堂々と胸を張って会場に向かった。彼女たちが去った後、その女性たちは目を白黒させながら愚痴を言い合った。「見た?あの得意げな表情。明日にでも瑛介と結婚するみたい」「五年も追い続けて成果がないのに、なぜそんなに得意げになってるのかしら」「彼を助けたから彼女は受け入れられたのよ。それがなければ誰も相手にしないでしょう」「でも、弥生のこと覚えてる?彼女はなぜ離婚して去ったのかしら?奈々に負けて諦めたの?」「格が低かったんじゃない?負けたら引き下がるしかないわ」「でも、奈々だってまだ彼の彼女ですらないわよ?」その言葉に彼女たちは黙り込んだ。彼らの関係の真相は分からないままだった。会場に入ると
命の恩人ということもあって、ただ待ち続ければ、いつか彼を感動させられると奈々はそう信じていた。この数年、瑛介を感動させることはできなかったが、瑛介の両親は彼女に心を動かされていた。当初、瑛介の父と母は彼女を受け入れたくないという態度を示し、命の恩人としての感謝は示すものの、それ以上の親密さを見せることはなかった。しかし時間が経つにつれ、彼女の本気さ感動したらしい。例えば、今回のオークション。瑛介の母がどうしても手に入れたい品が出品されると知り、奈々と瑛介に二人分の招待状を用意してくれた。これは瑛介の母が二人の関係を深めるためのチャンスを作ってくれたに違いないと奈々は思った。そんなことを考えながら、奈々は瑛介の寝室のドアを軽くノックした。中には入らず、ドア越しに尋ねた。「今夜のオークションに行く?」部屋の中でシャツのボタンを留めていた瑛介は、その言葉に手を止めた。本当は行きたくなかったが、母が欲しがる物が出品される以上、仕方がなかった。最低限、親孝行のふりだけでもしないといけない。「うん」彼は冷たく一言だけ返した。その答えを聞いて、奈々はほっとした。とにかく彼が行くと決めてくれただけで十分だった。「それじゃ、後で迎えに来るわね。私も服の準備をしてくる」「うん」奈々はようやく笑顔を浮かべることができた。彼と一緒にオークションに行けるというだけで、まだチャンスがあると感じられるからだ。部屋を出ると、彼女は急いでスタイリストを呼び寄せ、一番華やかな装いを用意させた。夜になると、彼女は細いハイヒールを履いて瑛介を迎えに行った。今回のオークションは、ダイダイ通商主催の大規模なものだった。実力を示すために駿人が力を注いだイベントであり、多くの上流階級の人々が出席していた。特に目玉となる品はサプライズと言われ、多くの考古学の権威者たちも会場に駆けつけていた。車から降りた奈々は、ハイヒールの高さに足元がふらつき、思わず瑛介の手を取ろうとした。だが、瑛介は歩き出すタイミングを微妙にずらして、彼女の手が届く前に進んでしまった。その瞬間、奈々はバランスを崩しかけた。周囲からは笑い声が聞こえて、奈々の顔は真っ赤になった。音の方向を見ると、笑っていたのは普段から顔見知りの名門の令嬢た
しかし、奈々がそう言っても、瑛介は以前のように優しく慰めるわけでもなく、ただ冷淡な目で彼女をじっと見つめていた。その視線を目の当たりにした奈々は居心地が悪くなり、自ら話題を変えるしかなかった。「まあ、私の電話を無視するなんてあり得ないわよね。ところで、綾人は?昨夜、あなたに電話したとき、彼があなたが飲み過ぎたと言ってたけど、大丈夫?頭は痛くない?」彼女があれこれと心配するように話しても、瑛介は簡単に「大丈夫」としか答えなかった。それから彼は無言で寝室に向かい、シャツを着始めた。奈々はその冷静すぎる背中を見つめながら、胸が締めつけられるような痛みを感じた。五年前、瑛介が弥生との離婚に成功し、弥生は国外へ去った。それ以降彼女は行方不明になった。奈々は彼女が約束を守ったことに驚いたと同時に、瑛介が離婚したら自分と結婚してくれるだろうと期待に胸を膨らませていた。しかし、その期待は現実になるどころか、瑛介は彼女にこう言った。「悪いけど、約束を果たすことはできない」その言葉を耳にした瞬間、奈々は凍りついた。しばらくして、彼女は無理に笑顔を作りながら尋ねた。「どうして?あの事件のせい?まだ私が指示したと疑ってるの?瑛介、私は弥生があなたのそばにいることを羨ましいと思ったけど、私がいない間、彼女が代わりにあなたの世話をしてくれたことを感謝しているのよ」「代わりなんていない」「え?」「奈々、彼女は君の代わりになったわけじゃない。僕たちは元々一緒にいなかったんだ」その言葉に、奈々は顔色を失い、体がぐらりと揺れた。「奈々、君が命を懸けて僕を救ってくれたことは一生忘れない。でも、これから君が困ったとき、僕は......」瑛介が話し終わる前に、奈々は感情を爆発させた。「それってどういう意味?私を捨てるの?昔、私たちは約束したじゃない。私が戻ったら、あなたは離婚して私と一緒になるって。それがどうしてこうなるの?」彼女がどれだけ感情的に訴えようとも、瑛介はただ静かに座っていた。その目は冷静そのもので、表情も動作も一切の感情を見せない。まるで冷たい壁のようだった。最後に「ごめん」とだけ言い残し、瑛介はその場を去った。奈々は狂いそうになり、その後何度も彼を訪ねたが、恋愛の話題を出すと、瑛介は彼女に会おうとせず
あるホテルのスイートルームでカーテンが誰かに開けられ、部屋は瞬時に明るさで満たされた。眩しい光が大きなベッドに横たわる顔に差し込むようになった。横たわっている人が、ようやく眉をひそめながら目を開けた。「目が覚めたか?」ソファから清々しい男性の声が響く。目を覚ましたばかりの瑛介は、わずか数秒で綾人が来たと分かった。眩しい光に瑛介の目が耐えられず、目を閉じ、再びベッドで横になった。しかし、綾人は彼が目を覚ましたことにすでに気づいており、彼が無視するのを承知で話を続けた。「いつまで寝るつもりだ?」瑛介は答えなかった。綾人は予想通りの反応に苦笑して、瑛介から返事を待つことなく話を進めた。「もうお酒は飲むべきではないと警告されたんじゃないのか?」依然として無反応な瑛介に、綾人はやや苛立ったように笑った。「それとも、自分の体を酷使して、親に迷惑をかけるつもりか?」その言葉が静かに部屋に響いた後、しばらくしてようやく瑛介がベッドから起き上がって、無表情のままお風呂へ行った。綾人は、瑛介の油断ならない態度に呆れつつも、5年前に弥生が弘次と共に去ってから彼がこんな状態になった過程を見てきた。「人間でもなく、ゾンビでもない」上手く言えないが、確かに瑛介は以前とは違うのだ。むしろ、仕事面ではかつてないほど優秀になり、現在の宮崎グループは誰にも敵わないほどの地位に立っている。しかし、それは彼が激務する成果に過ぎない。仕事以外の時間は、酒を飲む日々が続いている。遊びにも興味を示さず、睡眠時間も削り、胃の病気まで患っている。かつては酔えることが救いだったが、酒を飲み続ける中で免疫ができ、酒すら彼を麻痺させなくなった。瑛介は復讐しているわけではなく、ただ現実逃避のためにこんなことを繰り返しているのだと綾人は感じていた。綾人はお風呂の扉を軽くノックして言った。「今夜のオークションを忘れるなよ」お風呂からは何の反応もない。少し考えた後、綾人はさらに続けた。「奈々も来るぞ。昨日の晩、お前が酔っていたから、俺が代わりに電話に出た。お前が起きたら来るって言ってたぞ。伝えたからな。それじゃ、これで失礼」そう言い残して、綾人はホテルを後にした。彼が去った後、お風呂からは水の音が響き始めた。
「死んだ」千恵の質問はまだ終わっていなかったが、その言葉はいきなり千恵に投げつけられた。彼女はその場で硬直して、呆然と弥生を見つめた。「え?」弥生は目を上げて、冷静に言った。「どうしたの?」「死んだ......って?」千恵は、このような答えを全く予想していなかった。口で繰り返してしまったことに気づいて、さらに動揺してしまった。「えっと......」何てことだろう。人がすでに亡くなったという話を聞いたのに、それをわざわざもう一度繰り返すのは酷いことをしてしまっただろうか。千恵はいきなり後悔に襲われて、さっき弘次の話をしていたほうが良かったのではないかと思うほどだった。これまで弥生が過去について口をつぐんでいた理由、そして由奈がいつも「それは彼女の傷つく話だから聞かないほうがいい」と長いため息をついていた理由が、今千恵にはようやく理解できた。弥生が二人の子供を連れて一人で生活している理由もはっきりと分かった。「ごめんなさい」ようやく我に返った千恵は、弥生にお詫びの言葉を言った。「本当にごめん......私、知らなかったの。こんなこと聞いてしまって......」その後も千恵はずっと弥生に謝り続け、ひどく申し訳なさそうにしていた。その姿に、弥生自身がもどう言葉を掛ければ良いのか困ってしまうほどだった。弥生が「死んだ」と言ったのは、ただ二人の子供の父親について探りを入れられるのを避けるためだった。決して千恵を信頼していないわけではない。ただ、弥生にとってその話はすでに過去であり、簡単に掘り出したくないものなのだ。しかし、千恵をこんなに怯えさせてしまうのなら、もう少し穏やかな言い方を取ればよかったかもしれないと後悔した。結局、千恵は恥ずかしくて弥生に一緒にバーに行こうという話を持ち出すこともなかった。弥生は一日中飛行機に乗って、生理痛もあって体力が限界だったため、早く眠りについた。翌朝目を覚ますと、千恵がいきいきとした表情で彼女に声を掛けてきた。「ねえ、昨日の夜、私がバーに行ったとき、誰に会ったと思う?」「え?」弥生は思わず眉をひそめた。「昨日の夜は早めに寝るって言ってたでしょう?」「そうなんだけどね。あなたが体調悪そうだったから、私一人でこっそり行ったの」「それで、会え
陽平は顔を上げて「はい?」と小さな声で尋ねた。千恵は弥生に付きまとって一緒に外出するよう説得していたが、陽平の愛らしい顔を見上げた瞬間、その可愛さにノックアウトされてしまった。「へへへ、おばちゃんにちゅーさせてくれない?」夜、弥生と千恵は料理していた弥生が台所で夕食を準備している時、千恵は着替えてから彼女を手伝おうとキッチンに向かった。その途中、リビングを何気なく覗くと、テーブルの前で宿題に集中している陽平の姿が目に入った。千恵は一瞬足を止めて、動けなくなった。黄昏があって、窓から差し込む夕焼けの光が陽平の横顔を照らしている。小柄な少年が机に向かって、稚気をわずかに残しながらも、この年齢には似つかわしくない成熟と冷静さを漂わせていた。千恵は呆然と彼を見つめていると、次第に信じられないというな表情を浮かべた。「最近バーで彼に会えなくて、気が狂いそうになってるのかしら?」陽平の姿と、以前バーで見かけた男性の面影が重なったからだ。数秒後、彼女は目をこすりながら自分に言い聞かせた。「ああ違う、寝不足だからこんな幻覚が見えるのよ」そう呟くと、彼女は気を取り直してキッチンへ向かった。しかし、キッチンに入った後も、どうしてもさっきの光景が頭から離れない。「横顔も雰囲気も、どうしてあんなに似ているの?」と胸の内で繰り返し考えていた。彼女は弥生を手伝いながら、とうとう好奇心を抑えきれずに口を開いた。「あのね、ちょっと失礼なことを聞いてもいい?」弥生はそれを聞いて、料理を止めて振り返って、少し困ったように彼女を見た。「また弘次のこと?」千恵はすぐさま否定した。「違う違う、今回のは弘次とは全く関係ないの」それを聞いた弥生は安心したように微笑み、軽く頷いた。「じゃあ、どうぞ好きに聞いて」「本当に?なんでも聞いていい?」千恵は少し気にしている様子だった。「ええ」彼女にとって最近の一番の悩みは弘次に関することだった。それ以外なら、ほとんど気にしない。「じゃあ、本当に言うわよ」千恵は友人が気にしているのは弘次の話題だけだと察して、少し安心したようだった。しかし、聞きたい内容を思い出すと、深く息を吸い込んでから口を開いた。「実はずっと前から聞きたかったんだけど、気に障
千恵は笑顔を浮かべながらスマホを取り出した。弥生は微笑みながら彼女に近寄った。「いいの?じゃあ、私が目利きしてみるわ。あなたにふさわしいかどうか」ところが、千恵はアルバムを開いてもしばらく写真が見つからない様子だった。「おかしいなぁ、この前こっそり撮ったはずなんだけど。遠くからであまりはっきり見えないけど、雰囲気は完璧だったのよ。彼から漂うオーラは普通の人じゃなかったの」弥生はしばらく待っていたが、結局千恵は写真を見つけられなかった。「あああ、どこにある?せっかく撮った写真がなくなっちゃったの?」千恵が悔しがる様子を見て、弥生は彼女の手を軽く握りしめた。「まあまあ、写真が見つからなくてもいいじゃない。彼を手に入れたら、好きなだけ撮ればいいでしょ?」その言葉を聞いた千恵は、後悔したような目つきで彼女を見た。「そんなこと言っても、彼を手に入れるのがいつになることやら。あの写真だって、私が隠れてこっそり撮ったのよ。彼は座ってお酒を飲んでただけなのに、警戒心がすごくて。きっと私が撮ろうとした瞬間、こっちを見たからシャッターを押し忘れたんだわ」せっかくのチャンスを逃したと思うと、千恵は惜しさで胸がいっぱいそうだった。「それに、彼ってあんまり現れないのよ。私が彼に会ったのも数回ほどしかないし」「そうなら、次に会った時は思い切って連絡先を聞いてみたら?」「そんなのもう試したわよ。でも全然私を相手にしてくれないの」弥生は黙り込んだ。彼女の話を聞いて、この男性がまさに「高嶺の花」だと確信した。「それに彼、何か悲しい思いを抱えてるみたいで、お酒を飲んでる時の背中がとても寂しそうで......心が痛くなるのよ」弥生は言葉を失った。好きな人を見ているとフィルターがかかるとはまさにこのことだ。お酒を飲んでいるだけで心を痛めるなんて考えられないだろう。「こうしましょう」千恵はいきなり弥生の腕に絡みつき、にっこり笑いながら言った。「今夜、一緒に付き合ってよ。私は彼を半月も待ってるのに、一度も現れてくれないの。あなたは強運の持ち主だから、一緒に行ったらきっと彼に会える気がするの」「いや、私は行かないわ」弥生は即座に断った。「ひなのちゃんと陽平の面倒を見ないとね」「子供たちすごくお利口さんなん